作品 AI

が作った。
一層が白木、
二層が天竺様、
三層が唐様
正しくは鹿苑寺。室町幕府3代将軍
足利義満は、西園寺家の別荘を譲り受け、ほぼ10年
かけて大飢饉のさ中、1398年に北山殿を竣工させて晩年を過ごした。
現在の寺域は義満の北御所にあたる。義満の死後、義待はここを褝宗に
改めたが、金閣以外の主な建物は、その後の浜火で焼失した。
現在の建物の多くは、幕府の後援で

作った。
慈照寺は足利義正の造営した山荘東山殿が、
死後寺に改められたもの。
銀閣はで、
上は仏殿風、下は書院造になっている。
上棟は1489年、善政死後に完成したが、完成年は不詳。
銀閣といっても応仁の乱の財政難で銀は使われておらず、漆塗り。
善阿弥一族が作庭したという庭園には、月を賞でるための
砂盛・銀沙灘がある。東求堂には四畳半茶室の原型とい同仁斎がある。

が鹿狩りの殺生を戒められ、清水山
の、81O年に
清水寺と号した。南都興福寺の京都拠点になったため、
平安末期には叡山の僧兵に何度も焼かれた。
西国三十三ヵ所霊場第16番札所で、お参り客が多い。
現在の堂搭は1633年、が再現した。

嵯峨天皇の皇子左大臣源融の別荘をが宇治殿
とし、その子頼通が”末法の世”に入る1052年に譲り
受けて平等院と称した。
極楽浄土を夢見た頼通は、建物に贅をつくし、
本尊を置く鳳凰堂や金堂・五大堂等の豪壮な伽藍を建立したが、
幾度も浜火を被り、15世紀末の山城の国一揆では、ここで集会が開かれた。
当時の建物で現在するのは鳳凰堂だけである。

大仏殿は大仏を安置する金同で、木造古建築としては
世界最大の建物である。
あり、高さはに相当するが、それほど高く見えないのは、大
屋根が大傾斜して、建物の近くから屋根の上げられないからである。
当初の建物は江戸再建時(1708年)の1.5倍あったという。

東大寺の本尊で、正しくは
毘廬舎那仏座像という。平城
遷都後の災害や疫病で、政情
不安を憂えた聖武天皇は、
743年に詔を発し、大仏を造
って仏の恵みを分かち、日本
を仏教国家みしようとした。

の氏寺、ととも
に飛鳥から移った。南都七
大寺の一つ。鎌倉時代は、延暦寺
と対立、奈良法師 (僧兵)

正式名英語では
と表示する自然公園で、緑の草地に池
が光り、鹿が食べない馬酔木が茂っている。

『世界遺産』
薬師寺では1968年から堂塔の復元事業が
進められていたが、1976年の金堂再建以来、
西塔・中門・回廊が順次復元され、2003年春
の大講堂の完成によって白鳳時代の姿がよみがえった。

平安遷都1100年(1894年)
を記念して、平安京朝堂院
の8分の5の規模で建てられ、
桓武天皇、のちに孝明天皇を
祭り、市の総社とした。

(教王護国寺)[世界遺産]
平安京造営の際、羅城門の東西に設けられた官寺の
一つで、823年空海(弘法大師)が嵯峨天皇よりいただき、
真言密教の道場とした。
創建時の建物は源平の争乱で荒廃したが、文覚上人が12世紀に復興した。

が上洛の宿舎とした二条館を、1626年、
家光が増築して徳川将軍の京都屋敷としたが、
家光が泊まって以後14代家茂が上洛するまで将軍の
入城はなかった。


参考文献
(株)教材研究所 関西の旅