作品 S

正しくは鹿苑寺。室町時代3代将軍足利義満は、西園寺家の別荘を譲り受け、10年かけて大飢饉のさ中398年に竣工させて晩年をすごした。
一層が白木で和様の寝殿造、二層は天竺様の武家造、三層は唐様の

慈照寺は足利義政の造営した山荘東山殿が、死後寺に改められたもの。
銀閣は禅の影響うを強く受けた東山文化を代表する建物。上は仏殿風、下は書院造になっている。
聖徳太子がこの地に斑鳩宮を営み、多くの寺院を開いたが、当時の伽藍で現存するのは法隆寺だけである。「日本書紀」によると、法隆寺は670年に焼失している。

嵯峨天皇の息子左大臣源融の別荘を藤原道長が宇治殿とし、その子頼道が「末法の世」に入る1052年に譲り受けて平等院と称した。極楽浄土を夢見た頼道は、建物に贅をつくし、本尊を置く鳳凰堂や金堂・五大堂等の豪壮な伽藍を建立した。

坂上田村麻呂鹿狩りの殺生を戒められ清水山の山中に仏殿を建てたのが寺おこり。昔から「清水の舞台から飛び降りる」と勇気・決断の気持ちを表すが、高さは現代人は高く感じない13m。昔、本当に飛び降りた人もいた。

大仏殿は大仏を安置する金堂で、木造建築としては世界最大の建物。左右57m、奥行50.5m高さ47.5mあり、たかさは都市ビルの14から15階建に相当するが、それほど高く見えないのは、大屋根が大傾斜して、建物の近くから屋根を見上げられないからである

東大寺本尊で正しくはビル遮那物坐像という。
聖武天皇の遺愛品のほか東大寺の宝物が収められ、宮内庁が管理している。建物は湿気を防ぐため高床式となっている。

徳川家康が上洛の宿舎とした二条館を1628年、家光が 増築して徳川将軍の京都屋敷とした。
家康と秀頼の会見、後水尾天皇の行幸、1867年大政奉還の場となった。

菅原道真が大宰府で亡くなった後、都でたたりが続いた。朝廷はたたりを恐れて948年道真を祭った。道真は学問・文芸の神様とされ合格祈願の受験生が多い。
毎月25日には天神さんの縁日、露店が並ぶ。

平安遷都1100年を記念して平安京朝堂院の8分の5の規模で作られ桓武天皇を祭り市の総社とした。四季折々に美しい神苑の池には琵琶湖で絶滅した魚が生きのびており、日本最古の京都市電もある。
参考文献
〔株〕教材研究所 関西の旅