作品G

正しくは、鹿苑寺。室町幕府3代将軍足利義満は、西園寺家の別荘を譲り受け、ほぼ10年かけて1398年に北山殿を竣工させて晩年を過ごした。現在の寺域は義満の死後、義持はここを禅宗に改めたが、金閣以外の主な建物は、その後の兵火で焼失した。現在の建物は、幕府の後援で17世紀後半建られたものである。

全国に1万社もある天満宮・天神社の本社はここ。菅原道真と夫人・長男を祭る。道真が大宰府で死んだ後、都で災害が続いた。朝廷はたたりを恐れて947年道真を祭ったという。社殿「宝」は桃山建築、東照宮の手本になったという。道真は学問・文芸の神様とされ、合格祈願の受験生が多い。秀吉はここで北野大茶湯を催し、1603年には出雲阿国が歌舞伎を初興行した。道真にちなんだ梅林があり、毎月25日は天神さんの縁日、露店が並ぶ。

坂上田村麻呂が鹿狩りの殺生を戒められ、清水山の山中に仏殿をお建てられたのが寺の起こりで、810年に清水寺と号した。南都興福寺の京都拠点になったため、平安末期には叡山の僧兵に何度も焼かれた。西国三十三ヶ所霊場第16番霊礼所で、お参り客が多い。現在の堂塔は1633年、徳川家康が再建した。本堂「宝」から張り出す“清水の舞台”は釘を使わずに組まれた懸崖造。昔から[清水の舞台から飛び降りる」と勇気・決断の気持ちを表すが、高さは現代人は高く感じない13m。昔、本当に飛び降りた人もいた。外陣の梁に末吉船3面と角倉船1面の朱印船絵馬がある。音羽の滝の水は[万病に効く」名水。境内は桜と紅葉の名所、石仏が多い。近年、田村麻呂に滅ぼされたエミシの勇者アルテイとモレの碑が建った。

東大寺は良弁が開基した華厳宗大本山である。仏教が盛んになった天平時代の初め、平城京の東の大寺、また諸国の国分寺を統制する天下総国分寺として造営された当時最大の官寺で、正しくは金光明四天王護国之寺と言う。前身は728年に創建された金鐘山寺といわれ、聖武天皇の詔で国分寺の制が定まると、大和の国分時となり、さらに天皇の発願で造られる大仏を安置する寺として、7年にわたり、国費の5分の1を注いで大伽藍が造営された。当時の堂塔は、中門の外の左右に高さ97mの七重塔がそびえ、南大門、中門、金堂、講堂、が一直線上に並んでいた。七重塔は土壇が残っているだけ。創建当初の主な堂塔は、1180年、平重衡の南都焼討ちで燃失した。このとき僧重源は、僧や山伏に勧進状を持たせて全国を巡らせ、再建資金を集めて復興した。しかし、1567年の乱戦で大仏殿が焼け、頭部は修復されたが、17世紀末の再建まで大仏は雨ざらしとなった。現在の伽藍が整ったのは江戸時代である。

藤原氏の氏寺、遷都とともに飛鳥から移った。南都七大寺の一つ。鎌倉時代は延暦寺と対立し、奈良法師(僧兵)は「春日の神木」をかついで度々朝廷強訴した。維新の廃仏毀釈では「秋風や囲いもなしに興福寺」と子規が詠んだほどさびれていた。阿修羅像<宝>や旧山田寺仏頭<宝>天燈鬼<宝>等は国宝館にある。五重塔<宝>は他の堂塔とともに何度も焼けたが、現在のは1426年の再建。1741年再興の南円堂<重>は観音信仰の参拝客が絶えない。なお猿沢池は、もと興福寺の放生地である。
2泊3日で、奈良と京都を巡る事が、出来ました。金閣寺や清水寺、東大寺など有名な寺院をたくさん見ることができ、とても楽しかったです。特に、金閣寺の金閣には圧倒されました。
また、八橋や、抹茶など有名な食べ物も食べることが出来ました。そして、奈良では鹿にせんべいをあげることが出来ました。始めは、怖かったけれど、だんだん慣れ、楽しかったです。
いろいろなものを、見たり、聞いたり、食べたりすることが出来て、とてもたのしかったです。
参考文献 (株)教材研究所 関西のたび
社団法人 日本移動教室協会 京都班別行動