作品 C

金閣寺
正しくは鹿苑寺。室町幕府3代将軍足利義満は、西園寺家の別荘を譲り受け、ほぼ10年にかけて大飢饉のさ中、1398年に北山殿を竣工させて晩年を過ごした。
現在の寺域は義満の北御所にあたる。義満の死後、義持はここを禅宗に改めたが、金閣以外の主な建物は、その後の兵火で焼失した。
現在の建物の多くは、幕府の後援で17世紀後半に建てられたものである。
金閣(舎利殿)は一層が白木で和様の寝殿造、二層は天竺様の武家造、三層は唐様の禅寺風仏間で各層の建築様式が異なる。
禅宗に王朝文化の香りを添えた北山文化を象徴する金閣であるが、その金箔は当初は最上層だけに張られていた。
平安神宮
平安遷都1100年(1894年)を記念して、平安京朝堂院の8分の5の規模で建てられ、桓武天皇、のちに孝明天皇を祭り、市の総社とした。
四季折々に美しい神苑の池には琵琶湖で絶滅した魚が生きのびており、日本最古の京都市電もある。

清水寺
坂上田村麻呂が鹿狩りの殺生を戒められ、清水山の山中に仏殿を建てたのが寺のおこりで、810年に清水寺と号した。南都興福寺の京都拠点になったため、平安末期には叡山の僧兵に何度も焼かれた。西国三十三ヵ所霊場第16番札所で、お参り客が多い。
現在の堂塔は1633年、徳川家光が再建した。本堂から張り出す“清水の舞台”は釘を使わずに組まれた懸崖造。昔からと勇気・決断の気持ちを表すが、高さは現代人は高く感じない13m。昔、本当に飛び降りた人もいた。音羽の滝の水は[万病に効く」名水。
二条城
徳川家康が上洛の宿舎とした二条館を、1626年、家光が増築して徳川将軍の京都屋敷としたが、家光が泊まって以後14代家茂が上洛するまで将軍の入城はなかった。
ここは家康と秀頼の会見、後水尾天皇の行幸、1867年の大政奉還決定の場となり、明治には宮内省が二条離宮として管理したが、1939年に京都市が譲り受けた。
本丸にあった最初の天守は淀城に移され、新たに5層の天守が建てられたが、その後の落雷と天明の大火(1788年)で類焼したままになっている。
興福寺
藤原氏の氏寺、遷都とともに飛鳥から移った。南都七大寺の一つ。鎌倉時代は延暦寺と対立し奈良法師(僧兵)は「春日の神木」をかついで度々朝廷に強訴した。
維新の廃仏毀釈ではと子規が詠んだほどさびれていた。
春日大社
平城遷都のとき、藤原不比等が氏神(常陸国鹿島の神)を御蓋山(春日山の西峰)山麓に祭ったのに始まり、興福寺とともに勢力を強めた。8世紀創建時の形を伝える朱塗りの社殿は、寺院建築の影響が見られる独特の春日造。また一ノ鳥居は典型的な春日鳥居。
社殿の軒には約一千基の釣燈籠、参道には約1800基の石燈籠があり、二月の節分と八月の中元に点火(万燈籠)される。境内の背後に貴重なナギの純林がある。
東大寺
東大寺は良弁が開基した華厳宗大本山である。仏教が盛んになった天平時代の初め、平城京の東の大寺、また諸国の国分寺を統制する天下総国分寺として造営された当時最大の官寺で、正しくは金光明四天王護国之寺という。
前身は723年に創建された金鐘山寺といわれ聖武天皇の詔で国分寺の制が定まると、大和の国分寺となり、さらに天皇の発願で造られる大仏を安置する寺として、7年にわたり、国費の5分の1を注いで大伽藍が造営された。
銀閣寺(慈照寺)
慈照寺は足利義政の造営した山荘東山殿が、死後寺に改められたもの。
銀閣は禅の影響を強く受けた東山文化を代表する建物で、上は仏殿風、下は書院造になっている。上棟は1489年、義政死後に完成したが、完成年は不詳。
銀閣といっても応仁の乱の財政難で銀は使われておらず、漆塗り。
善阿弥一族が作庭したという庭園には、月を賞でるための砂盛・銀沙灘がある。
参考文献(株)教材研究所 関西の旅